韓国のコミュニティサイトより「壬辰倭乱の中で最も悲惨だった戦闘」というスレの反応を翻訳して紹介します。
壬辰倭乱の中で最も悲惨だった戦闘
第二次晋州城戦闘
参戦した日本軍の武将、宇喜多秀家 黒田長政 伊達政宗 細川忠興 鍋島直茂 大谷吉継 小西行長 毛利秀元 島津義弘 立花宗茂 加藤清正 宗義智 石田三成 片桐且元 小早川隆景 長宗我部元親 松井友行
朝鮮軍7000~8000名が日本軍9万人を相手に約8日間の攻城戦を繰り広げた末、城が陥落し全員が戦死した壬辰倭乱最大の攻城戦。
当時、朝鮮政府も晋州城付近にいた将軍たちも、この戦いは絶対に勝てないことを理解していた。朝鮮政府は晋州城を放棄する命令を下し、将軍たちの中でも、洪衣将軍郭再祐(곽재우)、第一次晋州城戦闘で活躍した昆陽郡守李光岳(이광악)、全羅兵使宣居怡(선거이)、永川郡守洪季男(홍계남)らも「むしろ自害した方がましだ」と言い、城を救援することを放棄した。しかし、いくつかの義兵将や将軍たちは最後まで晋州城に入り、城を守ろうとした。
「湖南は国の基盤であり、晋州は実に湖南の垣根である。どうして倭寇にむやみに城を渡せるだろうか?」
—全羅道創義使 金千鎰(김천일)
「全羅道はまだ倭寇の侵入を受けておらず、穀物も人も無事である。必ず守らなければならない土地だ。このまま城を渡せば、倭寇が全羅道を侵略するかもしれないではないか。」
—慶尚右兵使 崔慶義(최경의)
「周囲の者たちは、父と兄弟が皆殺され家の後継が途絶えることを心配して彼(高宗厚)を止めたが、彼(高宗厚)は答えた。『死(死ぬことだ)!』」
—復讐義兵将 高宗厚(고종후)
このようにして城に入った者たちは、誰もがこの戦いに勝つのは難しく、十中八九死ぬことになるだろうと理解していたが、それでも最後まで城に入り、日本軍との戦いの準備をした。
彼らが最後まで城に入った理由として、一般的に次の二つが挙げられている。
一つ目は、晋州城が湖南と慶尚道を結ぶ要所であり、極めて重要な戦略拠点であったためである。実際に晋州城が陥落した後、日本軍は丁酉再乱の際に南原城と全州城を続けて陥落させ、全羅道を焼き尽くした。
二つ目は、日本軍が「城だけを落とす」と約束していたものの、朝鮮軍から見れば、本当に日本軍が約束通り城を落とすだけで終わるのか、それとも勢いに乗じて全羅道まで破壊するのか分からなかったことである。
そして、更に理由を挙げるなら晋州城に集まっていた民衆の存在だった。当時、晋州城は第一次晋州城戦闘の影響で「倭寇を食い止める城」という評判が広まり、多くの避難民が集まっていた。当時、城内に避難していた民衆は日本側の記録では3万人、朝鮮側の記録では6万人に達したと言われている。さらに、晋州城戦闘が始まる3日前まで避難民が続々と集まってきたため、官軍の立場では城を空ける時間を確保することができなかった。
結局、彼らは民衆と城を守るために、全員が死ぬ運命を知りながら最後まで城に残り、9日間にわたる激闘の末、全員戦死し、その名を後世に残した。後世には、「どうせ日本軍は晋州城だけを落として撤退するつもりだったのに、無駄に戦って死んだ」という批判もある。しかし、果たして当時の彼らが、日本軍が本当に城だけを陥落させて撤退するのか、あるいは民衆をそのまま放置するのかを知る術があっただろうか?こう考えてみると、この批判についても一度考え直す必要があるだろう。
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韓国の反応
だから悲劇的すぎてあまり取り扱われない内容なんだよ。
その気持ちを理解できないほどではないから、何とも言いにくいな。
それを相手に9日間も耐えたのだから本当に凄い。
その時、大元帥の権慄が「晋州城で死んだ怨霊を思えば絶対に受け入れられない」と言った。
その戦いがまさに第2次晋州城の戦いだった。
2.日本の言葉を信じて晋州城を空け渡して、そこを占領して湖南地方進軍の足掛かりにされたらどうする?
負けると分かっていても、晋州と民を守るために集まった義士たちは本当に偉大だ。
小早川隆景や伊達政宗なども参戦していた。
南海岸の水軍の基盤も失うことになる。
死ぬと分かっていても行くなんて・・・。
あれだけの徹底抗戦なら、普通は経験のない兵士相手なら、烏合の衆で自滅してただろうに。