韓国人「実は日本が韓国を圧倒し、米国さえ上回って世界一となった分野がこちらです…(ブルブル」→韓国人「 」

ニュースサイトNAVERより「米国を抜いて1位 『建築界のノーベル賞』最多輩出国・日本の底力」というスレの反応を翻訳して紹介します。


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米国を抜いて1位 「建築界のノーベル賞」最多輩出国・日本の底力

「建築界のノーベル賞」と呼ばれるプリツカー賞の今年の受賞者に、日本の山本理顕(78)を選定したと、米国ハイアット財団が5日(現地時間)に発表した。これで日本は1979年の同賞創設以来、最も多くの受賞者(9人)を輩出した国になった。受賞回数は8回で米国と同じだが、2010年に2人が共同受賞しており、受賞者数が1人多い。韓国人の受賞者はまだいない。

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 山本氏は、私生活ばかりを重視して密室になっていく建築を批判し、共同体の交流を強調してきた。審査委員会は「自由とプライバシーに対する伝統的観念を解体し、住宅を隣人と断絶した商品に転落させた長年にわたる状況を拒否した」「調和の取れた社会をつくるため公的領域と私的領域の間にある連帯関係を構築する建築家であり、社会運動家」と、選定理由を明かした。

■共同体の交流を追求する建築家
 山本理顕は「私にとって空間を認識することは共同体を認識することと同じ」と語った。「こんにちの建築のアプローチ法は、私生活を強調するあまり社会的関係の必要性を否定している。しかし私たちは、個人の自由を尊重しつつも、空間内において暮らしと文化の調和を追求することができる」。こうした共同体を重視する哲学を、彼は「地域社会圏」という用語で概念化した。

 山本理顕が設計した京畿道板橋のタウンハウスやソウル市細谷洞のマンションは、こうした考えを実現した作品だ。板橋では、住民らが共有する庭園の周りに各世帯を配置し、玄関の壁にはガラスを用いた。細谷洞のマンションもまた、玄関ドアをガラスで作った。しかしこうした試みは、韓国国内では「私生活の侵害」論争を引き起こし、板橋のタウンハウスは初期段階では未分譲も記録した。

 山本理顕は1945年に中国・北京で生まれ、第2次大戦の終戦直後、横浜に移住した。68年に日本大学建築学科を卒業し、73年に自身の設計事務所である「riken yamamoto & field shop」を設立した。それからおよそ50年にわたって、日本はもちろんスイス、中国、韓国などで作品を設計し、透明性と公共性を重要語彙(ごい)にした。例えば広島市西消防署(2000)は、建物を透明にして「安全の番人」である消防官の活動をあらわにし、訪問者が建物各部の公共区域で消防官と向き合えるようにした。横須賀美術館(2006)は、観覧者だけでなく地域住民が展望台などから東京湾一帯の絶景を眺めることができる憩いの場としてデザインした。

■デザインだけではない施工能力を評価
 建築界では、受賞者個人の力量を含む日本の建築全体の底力が「最多受賞」の基礎になったとみている。プリツカー賞は、アイデアではなく実際に建てられた作品を総合的に評価し、受賞者を決定する。ここにはデザインだけでなく施工能力、資本、関連法規といった建築文化が総体的に反映されるからだ。

 KAIST(韓国科学技術院)人文社会科学部のチョ・ヒョンジョン教授は「日本は1960年代から『日本らしさ』を掲げて国際建築界に領域を構築し、当時から『アジア』や『地域』をマークにして、国際水準の建築として遇されてきた」と語った。日本初のプリツカー賞受賞者、丹下健三が敗戦後の国家再建プロジェクトを遂行した東京大学の研究所が、この時期に重要な役割を果たした。チョ教授は著書『戦後日本建築』(MATI BOOKS刊)で、丹下研究所を「戦後日本という国家そのものを設計するシンクタンク」かつ「磯崎新、黒川紀章、槙文彦など才能ある建築家が集まった士官学校」と表現した。このうち、丹下本人と磯崎新、槙文彦がプリツカー賞に輝き、磯崎と槙は草創期のプリツカー賞審査委員としても活動した。

 日本建築の研究所文化は、丹下の時代の後も続いている。チョ教授は「日本の建築家らは、留学に出かけるよりも大学ごとの研究所でネットワークを作り、経験を積むケースが多い」とし「海外に行って似たり寄ったりな苦悩をするよりも、日本社会を深く探求する中でノウハウを伝授する方を選んだものとみられる」と語った。

 日本特有の職人精神も秘訣(ひけつ)として言及されている。ソウル大学建築学科の徐顕(ソ・ヒョン)教授は「日本は現代以前から『完成度』に対する執着が非常に強かった社会」だとし「今も、建築家がアイデアを出すと、世界最高水準の施工者らがそれを実現する方法を次々と提示し、建築物の完成度を高める」と指摘した。第2次世界大戦後、経済的繁栄を享受する中で、設計はもちろん施工や材料などに十分な費用をかけることができた点、敗戦後も多くの建築雑誌が活発に活動し、建築家らに公論の場が開かれていた点も成功の秘訣に挙げられる。一戸建て住宅中心の住居文化のおかげで、若い建築家らが早くから実務経験を積める機会が開かれている点も、マンション中心の韓国に比べて有利な点といわれている。



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韓国の反応

ニュースサイト「NAVER」の反応です。

凄い・・・。

我が国に勝てない分野が無くなった。

既にプリツカー賞を最多受賞する国になっていたとは・・・。

創作的な建築物は我が国のように制限された環境では絶対に発展しない。